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左大臣助平(スケヒラ)の悩み「悪夢」

 助平の奥方が生を受けたのは、栃木県足利郡三重村という、三方を山に囲まれた辺鄙な集落の一角である。
そこは日本最古の学校と言われる、足利学校から西に向かって約一里、意外と街には近いのだが、山を越えると一変して全くの田舎丸出し。
山の北奧には毘沙門天が鎮座し、毎年大晦日には除夜の鐘と共に、続々と山門に向かって村人達が「バカヤロー」と誰彼構わず怒鳴りまくりつつお参りに押し寄せる、『悪たれ祭り』でそこそこ名を知られてはいる。


 彼女が生まれたその頃は、戦後のドサクサから漸く立ち直った頃であり、向う三軒両隣の付き合いも極めて緊密であり、物の貸し借り助け合いは当り前の時代であった。その時父親は21才の若造であったそうな。

今の時代から見れば随分とマセているように思えるが、当時庶民の寿命はまだまだ短いものであった。

「♪姉やは十五で嫁に行き」だの「♪村の渡しの船頭さんは今年六十のお爺さん」などの唱歌を、なんら違和感覚えることなく歌っておった時代である。

確かに当時の六十才といえば立派な老人であり、また老人としての貫禄もしっかり具えていたものである。

従って十七・八で嫁に行き、十九・二十で妻娶るは至極当り前のことであったろう。

少し違うのはその後頭の中身はそのままに、寿命だけが飛躍的に伸びたことであろう。

彼女の父は八十路を越えたる今も、これといった差し迫った用事も無いのに、車で飛び廻っており、老人としてそれなりの貫禄というものにはまるで縁が無い。


 定かな年は故あって記述を控えるが、昭和30年代であることは間違いない。彼女は多少チビではあったが、一応それなりに成長し、小学校に入学する歳になった。

当時の学校は木造二階建てが主流であり、少し規模が小さい所では平屋建であった。

旧陸軍兵舎の色濃く残る校舎は、屋根はスレート瓦葺の板張り外壁、窓や扉は勿論木枠のガラス窓であり、調子づいた子供が勢い良く、ピシャリと閉めると、ガラスが割れることなど珍しくもない。

廊下の床板は所々足の親指がすっぽり入る程の大きな節穴やら、板が欠け、床下の地面が見えている処など当り前。

しかし何と言っても怖いのはトイレであった。それは男女の別なく、男子の小水は巾2尺(約60cm)長さ3間(約5.4m)程のコンクリートの溝があり、横一列で放尿できる構造になっておったが、これは余り良い設計とは言えぬ代物であった。

子供にとって、用を足すのに何しろ不安定この上なし。悲しいかな作業中にバランスを崩し、溝に転落する低学年の子供、年に数人いたようである。

当時のことゆえトイレは汲み取り式であることは言うまでも無い。従って大きな用を足す時には、特に注意を要し、大振りな品物を勢い良く落すと、必ずオツリが跳ね上がり、己が尻に汚点を残すことになる。

それに輪を掛けるかの如く、誰が見たでもなく、オバケの出る話がまことしやかにささやかれ、怖さのあまり友を誘って用を足す女子の姿、何処の学校でも見られた風景であった。

このような環境下にて、子供達は勉学のみならず、様々な落とし穴に対処すべく工夫を強いられたものである。

また、その頃から完全給食がそろそろ始まろうかという時代であり、ミルクは勿論脱脂粉乳で、味もそっけもない代物であったが、皆結構喜んで食したものである。


 彼女の世代は戦後のベビーブームの最中に生まれた子供達である。何しろ児童の数は半端ではない。1クラス50人で学年7クラスなど珍しくも無い時代である。人数が多いだけに、デキの良いのも足りないのも、ガキ大将からはたまたクセの悪いの、影は薄いがチャッカリ屋、などと実に様々な大集団。

そんな中、今も昔もあまり変わりない行事で父兄参観日というものがあった。今では『父兄』という言葉は『父母』に代わっているが、当時は当り前の言葉であったようだが、参観日にやって来るのは、余程の事情が無い限り母親である。

入学後暫くの間子供らは皆、物珍しさと団体生活の訓練で無我夢中である。彼女ももちろん無我夢中。

学校生活に程々慣れた頃、初めての父兄参観日がやってきた。

如何なる事情があったのかは判らぬが、当日は母ではなく父が参観に来ること、彼女は全く知らされていなかった。

時の教師は新任間もない、ピカピカの新米女教師。父は27歳の社会勉強まだまだこれからといった、アンチャンに毛の生えた程度のオトーサン。

先生はといえば、不慣れな危なっかしい場面を父兄に晒すまいと、緊張でコッチコチ。


 予定時間にはまだ大分間があるようだが、1人廊下をギシギシ行ったり来たりする人影に、先生始め子供ら皆その影に釘付け。

やがて意を決したかの如く、教室のドアを勢い良くガラリと開け、入って来たのが、ポマードテカテカ、背広きっちり、真に正しい正装姿の父親。

彼は教室に入った途端、親達は未だ誰も来ていないことに気付くや、気恥ずかしさに下を向き、オドオド・モジモジ・真っ赤か。

先生はと見れば、慌てふためき何故かこれまた真っ赤か。

当の彼女は子供心に、大人達の頼りなさを覚え、「こりゃ一体何なんだ!」とキョトン。

やがて他の親達も次々集まり、改めて新米先生の出欠取り。

名簿には子供の名の下に親の名前も記入しており、アガリまくった先生、出席の親の確認しつつ子供の出席を取ろうと努力したのは誠によろしいが、彼女のところでうっかり父親の名前を呼んでしまった。

「サイトーセイジ君」、呼ばれた父親、これまた緊張のあまりついついつられて「ハーイ!」と大きな返事。

他の親勿論、教室中が口あんぐり! しばし後爆笑。

先生、恥ずかしさのあまり真っ赤か、父は尚更真っ赤か。

その悪夢の如き光景は、純真な彼女の心に深く焼き付き、子供心に何れ大人になって、お嫁に行くときは父のような、そそっかしい薄っぺらな人の許には絶対行くまいと、しっかりと心に誓ったそうな。


 その後娘の成長と共に父親も社会勉強を重ねた筈であるが、八十路を越えた今でも、うすっぺらのソソッカシ屋は薄気味悪い程不変である。

彼女は血の繋がりのあろう筈のない夫と父が、何故このように性格が酷似しているのか、と度々思い悩むのであるが、娘というものは結局は父に似た者を伴侶に選んでしまうのが、世の常であるということを、悲しいかな未だに彼女は頑として理解しようとはしないのである。


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