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左大臣助平(スケヒラ)の悩み「ツーリング その1」
この数年を振り返ってみると、東関東大震災の前兆かと思える事象は確かにあった。それは取りも直さず助平にとって、若さは最早過ぎ去ってしまったという事実を、しみじみ実感させられた事でもあった。
人はその人生において、様々な体験を重ね、その体験を通して様々な事を学び取ることによって成長し、且つ人格の形成に繋がるものであるという。
これは彼が幼少の頃より、今は亡き父より事有るごとに聞かさてきた言葉であるが、確かそれに続いて、「警察の厄介になること、ならびに親を巻き込む事は避けよ、それ以外は何をやってもお前の勝手。」の言葉がついてきたものである。
その父も彼が成人し、ほんの数年後には「人生に飽きた!」と言い残し、ほんの1週間程寝込んだ後、さっさと旅立ってしまった。それは傍からみると誠にあっけない人生のように思える。
しかし「様々な体験をすべし」と言い続けてきた本人が、太平洋戦争で地獄の戦場を駆け巡り、修羅の場をくぐり抜け、筆舌に尽くせぬ体験をすると、死に対する恐怖や抵抗感のようなものが、少々薄れてしまうものらしい。
それにしても、助平も彼の父も、体験と人格の形成を結びつけるには、程というものがあるということを、あまり理解しなかったようだ。
助平が己の歳を否応無く実感させられた貴重な体験は、皮膚がんの発見から始まった。
彼の膝にできた皮膚の変色を娘に指摘され、しぶしぶ医師の元へ行ったところ、たちまち入院させられ、手術台に乗る羽目に。
幸い経過は順調で、無事退院したのは良かったが、「凡人が足の筋力を元に戻すには、ベッド生活の3倍の時を要す。然るに充分な注意とリハビリが必要である。」との医師の注意など上の空。
自由の身になった途端、彼の頭の中は何故か一気に30代、働き盛りの好青年。ついつい調子に乗り、年甲斐も無く棚の上に隠しておいた、若水ヤエコらしき恐ろしく古いヌード写真集をこっそり取ろうと、回転椅子の上に乗ったのが命取り。
本を取った途端椅子がひっくり返り、ドスンと床に思い切り尻餅。しまったと思ったときは後の祭り。助平あまりの痛さに全く動けず、うんうん唸っていたところに、折り良くひょっこり顔を出した徳兵衛に担がれ、医師の元へ駆け付けてみれば、脊椎の圧迫骨折との診断にガックリ。
再びベッド生活に戻るはたまらぬと、「良い子でおります故、何卒入院だけは御免被りたし。」
必死の頼みに医師も折れ、痛み止めとコルセットはしっかりあてがわれ、一応帰宅はしたものの、確かにその身の不自由なことといったら半端でない。
コルセットの締め付けに、昼食もまともにとれず、緩めたり締めたりの繰り返し。外せば痛い、締めれば苦しい、そうこうしながら数週間。
やがて潰れた部分は戻らねど、一応骨の安定を見た頃からリハビリ開始となり、最初のうちはせっせとトレーニングに励んだが、彼の男のこと続く筈はない。
結局、背を丸めとぼとぼ歩くその姿、真にジーサマらしいが、慣れてしまえば、それはそれでそこそこ周囲に溶け込み、別段しょげておる様子もなし。
時同じく東京は西の外れに、彼の旧友の1人に誠にもって酒好きの医師がおる。その男、軽い脳梗塞を発症したが、幸い大事に至らず、相変らず酒と縁が切れず、「脳梗塞などにビクついて医師が務まるか」と豪語しておったとか。
ところがある日診察中にひっくり返り、患者に助け起されたものの、半身マヒが残ったが、その後不自由ながらも、診察は続けてはいるそうだ。
後日談だが、その時の患者の驚きたるや半端なものではなかったようで、人様の前でひっくり返り、無様な姿を晒すのは絶対御免だとばかり、たちまち元気になってしまったとか。
現在その医師は歩行の補助に杖を離さず持ち歩くが、助平とて同様。しかし街中ではやせ我慢、誰もいないと杖を出す。
助平の周囲には、似たような連中が何人も居り、彼等いい年こいて、揃いも揃って『懲りる』という言葉を理解しようとはしない。
以下次号
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