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左大臣助平(スケヒラ)の悩み 「奥の手」
赤城山の中腹に、何故か妙にシナビタ温泉宿がある。
(注)シナビタ:鄙びた趣というものを遥かに通り越し、少々うら寂れた雰囲気の中にも、何故か奇妙な趣の世界を醸し出し、何となく居心地の良い処を意味するらしい。
助平はこの宿を時折利用しておるようだが、どうも至れり尽くせりの、細部に亘って気配りの行き届いた、所謂非の打ちどころのないような立派な温泉宿というものは、助平にとって何となく物足りぬようだ。
しかもこの宿は助平の館から程好い距離にあり、僅か1時間程で行けるのが誠に都合がよろしいようである。
日曜日の晩は宿泊客が比較的少ないようで、助平はその日を好み、時折奥と共にお泊りに出掛ける。
頭と口の軽さでは、比類なき男と言われて久しい助平であるが、その宿については何故か口が堅い。
もしや密かに思いを寄せている女将でもいるのかと思いきや、別段オナゴに興味を示している訳でもない。確かに誠にしっかり者の女将が取り仕切っているのは事実であるが、実はその宿には少々変竹林な仲居が居る。
その仲居、年の頃は中年末期のややオカメ、口は達者で手も早い。助平はこの仲居を相手に遣り合うと、どうにも全く歯が立たぬ。
助平が軽く彼女に惚けておちょくってみると、即座に憎たれ口の倍返しを喰らってしまい、兎にも角にも実に手強い仲居なのである。
何時の日か何とかして一泡ふかしてやろうと、企んでおる助平にしてみれば、それまでは他人には知られたくないのであろう。
加えて助平にしてみれば、その宿のシナビタ雰囲気の居心地良さというものを、余人に知られたくない気持ちがあることも否めないようだ。
赤城中腹の紅葉もそろそろ盛りを通り過ぎ、カエデや蔦、はたまたヤマノイモの赤や黄色の残り葉を僅かに留めた山道を、冬眠前の熊に出くわさぬかと怯えつつ、麓よりクネクネと、あちこちこすり傷だらけの車で進むこと四半刻。突如目指す宿は現れる。着いた途端、女将は目ざとく見つけ、早速玄関前までお出迎え。例の仲居は物陰に隠れ、奥がチェックインの手続き中、助平ボケ〜と立っていると、後ろからやにわにぬっと顔を出し「待ってたど〜」。この一言で鳥肌助平、危うく小便チビリそうになり、手荷物放り出しトイレに駆け込んでしまった。
これには女将も奥も慣れたもので、別段呆れも驚きもせず全くの自然体。
部屋に落ち着くなり、仲居の説教じみた説明聞くふりしつつ、着替えもそこそこに助平は早速湯殿に駆け込み、そのままゆうに半時、湯船の中でのんびり。
長時間湯に浸かっておれば、湯あたりしそうなものだが、彼は若き頃草津の手前あたりの、夫婦二人で営んでいる、あるチッポケな温泉宿のオヤジ伝授の入浴法(入浴中足を湯船から出しているだけのこと)をいまだに守っているようだ。
ところで、助平の食事の汚さは知る人ぞ知るところであり、彼が箸を置いた後の膳の上を見れば確かに汚い。
食べ物の残物が皿や盆一面に散らばっており、どうやら幼少期の躾の悪さをいまだに引きずっているのであろう。
そのこと奥も、最早いくら注意したところで直る見込みなしと匙を投げ、今では何も言わない。
そこへいくと、奥の食べ方は実に見事なものである。皿の上にはきちんと端に寄せられた魚の骨、他にはきれいさっぱり何もない。人の性格というものは、食事を見ても大方判るもの。
若かりし頃、その食べ方に感服した助平「そなたは皿を舐めておるのか?時折他人をナメておるのは承知だが、皿まで舐めんでもよかろう。」
「よっくごらんなさい、私の箸使いは、亡きジジ様譲りの芸術。私をナメテはいけませぬぞ。食べ方がきれいですと、容姿・振る舞い全てよろしくなるものです。」
言われて助平、やたら反論するとロクなことはないとばかり、ただ黙って肯くのみ。
やがて「お食事のご用意ができましたので、食事処までお越しくださいませ。」
の案内のままに食事処へ。そこは広間で和やかな雰囲気の中、各部屋別の座卓にて、順次運ばれてくる料理を頂くのであるが、仕切りがないので部屋全体が見渡せる。客達は特別バカ騒ぎする不埒な奴も居らず、各々楽しく食しておる様子。
その日助平達は旅籠に来る途中、麓の眼下に前橋一望の茶店で、コーヒーと団子という異な組合せの物を食したのがよろしくなかったか、空腹感を妨げたとみえ、奥も料理を残さず片づけるのに流石に難儀な様子。
そこへ仲居が給仕ににじり寄り、「うちの料理は美味いだろ〜う。板さんは顔はまずいが腕はいいし気風もいい。だから美味い上に量もたっぷり、しっかり食べなよ。」
「うむ!聞くところによれば、当館では食事を残すと一皿百円罰金を取られるとか。」と助平がうっかり軽い冗談を飛ばせば、すかさず仲居「うんにゃ、百円ではねえ千円だ。ヒイ・フウ・ミイ…あんた全部で5皿残したから五千円もらうべ。」「あ、いやいやまだこれから食すところ故、懸念には及ばん。」助平慌てて箸を持つ。
しかし奥はどうにもこうにも食べきれず、溜息まじりにふと隣の席に目をやれば、きれいさっぱり平らげ引き上げたところ。
奥はチラチラ目を遣りつつ思案顔。やがて意を決したかの如く、仲居が下がった隙を見て、さりげなく自分達の食べ残しの皿と隣の皿を次々と交換し、すまし顔。当然ながら助平は見て見ぬふり。
程好く例の仲居が膳を下げに現れ「アレッ!随分と綺麗に食べたこと。さすが奥方の躾が良いとみえるね〜。」
奥「誠に美味しゅうございました。このような馳走を残そうものなら、バチがあたりましょう。」
助平「うんうん、実に美味かった。むしろ足りないくらいだった。」聞くや仲居、「そんなに美味かったかね。それじゃ特別サービスでお替り持ってくるべ。」
奥は余計なことをお喋りしてと睨んだが時既に遅し。
「あっ、いやいやそのような気遣いは無用であります。健康の為には腹八分。」
「何言ってんだ!その顔のどこに遠慮の文字が書いてあるんだ?」
二人がやり取りしている間に、奥はさっさと席を立ち、残された助平「勘弁してくれ〜!」
その有様を見ていた座敷の他の客達、可笑しさこらえたり、呆れたり。程好い余興を見ているような塩梅だったとか。
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